
13世紀~15世紀を中心とした中世日本における、さまざまな書物に記された歴史の叙述から、神話の表現や多元世界の形成などを研究している松本郁代教授。その研究の面白さや研究者を目指したきっかけを聞きました。

「過去」を表現する「歴史叙述」の影響力を考察する
現在の研究テーマについて教えてください
私は、中世日本(13世紀~15世紀)に成立した歴史叙述の書物が、「過去」の歴史をどう表現し、戦略的に解釈しているのかを研究しています。 例えば歴史叙述には、12世紀末期から13世紀初期の天台僧の慈円が記した『愚管抄』などの歴史書や、南北朝の動乱を描いた軍記物の『太平記』といった書物があります。これらから単に過去の史的事実や作者の思想を読み取るだけではなく、その中に描かれる神や仏の語られ方、特に表現の構造的な仕組みに注目しています。その核心には、皇統の始まりを語る神代の神話をアレンジして創作された、脱正統的な中世的な神話(「中世神話」)に関する分析も含みます。 中世日本には、モンゴル帝国(元朝)による日本侵攻、皇統の分立、末法思想や戦乱による下降史観など、国家の存続を脅かす重大な危機がありました。その危機的状況にある国家の権力構造を変え、危機を克服しようとする仕掛けが書物のなかの歴史叙述にさまざまに表現されています。歴史叙述が語る「過去」の歴史は、史実や正確な歴史にこだわらず、むしろメタファー(比喩)や、言葉によって権力を正当化する一つの“ソフトパワー”として用いられた側面があります。 例えば「中世神話」のなかで、神代は国家権力を支える構造をもちますが、中世の「和光同塵(仏が救済のため世俗に混じること)」や「本地(ほんじ)垂迹(すいじゃく)説(神は仏の仮の姿とする考え方)」は権力のあり方を変える仕掛けとして語られます。こうした表現の構造と仕組みの関係は、一つの作品の枠を超えて、中世に成立した歴史叙述全体に広く共通していました。日本の神仏や皇統による文化ポリティクスは、グローバル化によるユニバーサル思考が進む世界のなかで、改めて日本文化史の問題として考察すべきだと思います。
研究者を志した理由やきっかけなどを教えてください
研究が面白くて博士号まで取得しましたが、もともと研究者を目指していたわけではありません。「もっと研究をしたい」という気持ちが結果的に今の職業につながりました。それまでは絵本作家になりたいと考えていましたが、研究が好きになったのは、卒業論文の執筆がきっかけでした。
神や仏というと、今では定型のイメージがありますが、中世の日本は、神と仏を同一視する「神仏習合」や「本地垂迹」という考え方が普通でした。この神や仏に対する柔軟な考え方が創造的で面白いと感じ、「その仕組みや構造はどうなっているのか?」と興味を持ちました。研究を進めるなかで、宗教儀礼のなかで神の意味が新たに作られたり、神話が読み替えられたりする仕組みがあることを知り、夢中になりました。「研究でしか分からない世界がある」という気付きを得たことで、卒業論文を書き上げた後、大学院に進学することを決意しました。
博士号取得後は、ロンドン大学SOASの宗教学やニュー・アート・ヒストリーの専門家と共同研究を始めたことで、研究の視野がぐっと広がり、研究仲間も増え、ますます夢中になりました。
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現在の研究テーマを決めたきっかけのようなものがあれば教えてください
私がこの研究テーマに取り組んだきっかけは、修士課程の時に、天皇が「神仏習合」の対象になる即位(そくい)灌頂(かんじょう)や即位法に関するテキストを読んで衝撃を受けたことです。
近代社会を迎えるまで、天皇は即位の際に即位灌頂という密教儀礼を行っていました。その理念や伝来を説明したものを即位法といいます。皇統が二つに分立した13世紀後半から14世紀頃の即位法のなかの神仏や天皇の説明を読解すると、言葉の言い換えである“メタファー”や、似ていることを根拠に類推する“アナロジー”などの喩法が多用されていました。どれほど偉大な神や仏、絶対主役の天皇が登場しても、記述では直接的表現を避けつつ、読み手の想像力を掻き立てる一方で、理念的には誰かしらにコントロールされる存在なのかなと感じました。
メタファーやアナロジーは、人の思考の道具の一つであり、同時に神仏と人をつなぐ表現の手段でもあります。それが中世社会では文化ポリティクスや神や仏や天皇のイメジャリーを形成したと考えました。また、こうした表現は現在のメディアや生成AIをつうじた情報伝達やバーチャルな世界の表現構造にもつながる話なのではないかと思いながら、歴史叙述の分析を進めています。
研究の面白さや醍醐味などについて教えてください

研究の面白さは、人の思考や考え方の、普遍的なパターンや表現の構造を知ることができる点です。その一例が、歴史叙述に書かれた「過去」の描写です。人が「過去」を捉える時、歴史研究者は史実として「過去」をとらえますが、例えば作為的に語られた「過去」は誤った歴史認識や扇動を生みますし、心情や情緒に訴える「過去」は、人々に感動や共感を呼び起こします。同じ出来事でも、記述や読解のし方によって全く違う意味を人に与えます。「過去」の理解から新たに見えてくる世界に、研究の醍醐味を感じます。
学生たちが研究を進めていくうえで、心がけてほしいことなどについて教えてください
研究への好奇心を、クリエイティブな発想につなげることを意識してほしいです。人文学の成果は、日本のコンテンツ産業や外交のソフトパワーにも一役買っていますが、生成AIが瞬時に提供する定型の情報とは異なる、自分だからこそ出せる、唯一無二の研究スタイルを探せるといいなと思います。例えば、ゼミでは『徒然草』などの古典や和歌を読解していますが、「この作品に合うBGMを探してみて」と言うと、学生は戸惑います。しかし、いくつか候補を挙げると、「ちょっと違う」「いいね」と反応しはじめ、意外にも日本の古典文学と洋楽、例えばビートルズやエルトン・ジョンなどが合ったするので、「どうしてかな?」と一緒に考ながら、言葉がもつ意味のイメージを探るという読み方の発見につながることもあります。その感性から、逆に小説をもとに楽曲する“YOASOBI”や、歴史や文学をトピックにする“水曜日のカンパネラ”など、現代音楽シーンが創造的に再生している中世史や古典が刺激となり、卒論研究につながることもあります。
誰もが創造的な素養をもっています。「古典は難しく読むもの」「研究は卒論のためにするもの」といった狭く堅苦しい先入観を捨て、研究への想像力と自分自身の可能性を広げることが、感性を伸ばしクリエイティブな発想を生み出すのだと思います。
研究者にとって一番必要な素養(能力)は何でしょうか?
一番大切なのは研究に対する情熱だと思います。研究者にとって、好奇心や探究心はもともと備わっているものですが、研究活動は数十年にわたる長い道のりです。ライフステージによっては、研究に十分専念できない時期もあるかもしれません。それでも、研究への情熱があれば、どのような経験もプラスの糧にして、さらに高い意識で研究に向き合うことができると考えています。
研究をしていくうえで、大切にしていることは何でしょうか?
研究以外のものにも関心を持つこと、それは特別なものでなくても、日常的な会話や人間関係から感じるものを大切にしています。例えば、朝の通勤ルートで見かける花壇、電車に乗っている人たちの表情や持ち物、大学の銀杏の色や影の長さ、学生とのおしゃべりや空気感など、何げないものです。人文学、文化史は人を対象とする学問ですから、環境や人の様子から現代社会の生の変化を敏感に察知すべきです。一見、研究とは関係がないと思っても、問題意識を持っている自分は変わりませんから、些細な日常の体験や刺激が自分の研究のスタンスにも投影されているのだと思います。
YCU受験生へのメッセージをお願いします
皆さんは生成AIと共存しながら未来を生きる世代です。多元世界を実現する未来だからこそ、人文学が育てる、定型にあてはまらない新たな発想や柔軟な思考は、豊かな感性や批判精神を身に付け、より人間らしく生きるための指針となります。
大学での学問体験は、AIに考えを委ねることと、自分で考えることの違いを明確にしてくれるでしょう。国際教養学部の少人数ゼミやキャンパスライフは、自分が一生をかけて挑む価値のある課題や、大事にしたいと思えるものと出合う絶好のチャンスになると思います。
ぜひとも一緒に、未来の自分を先取りしましょう。
