KIGUCHI NAOKO & SHOUJI TATSUYA Seminar04   KIGUCHI NAOKO & SHOUJI TATSUYA Seminar04

研究セミナー特集

Seminar04 土地の歴史を現在(いま)の魅力に 田端文士村記念館に於ける地域活性化への文化的アプローチ

開催日 / 2018年12月10日(月)開催
開催会場 / 横浜市立大学 金沢八景キャンパス YCUスクエア Y204
講演 / 木口 直子 田端文士村記念館 学芸員
担当教員 / 庄司 達也先生

2. 木口 直子 学芸員と庄司達也教授の意見交換

記念館の目玉として、構築が決まった
芥川の家の精密な再現プロジェクト

セミナー写真2

ここから庄司先生にも一緒にお話を。

今の田端について、庄司先生と一緒にさらにお話を進めていきたいと思います。

ちなみに、こちらが「芥川龍之介 田端の家復元模型」の写真です。私は監修という立場で携わりました。まずは、かつての芥川家の調査からです。芥川家が昭和20年の戦災で焼けたということは、この家を実際にご覧になった方は、その記憶があるとすれば、現在80歳、90歳になっていらっしゃるでしょうか。当然、子供時代に見たということですね。子供時代に家を見るということは、すごく視野が狭かったはずです。例えば、「屋根の形はどうでした?」と聞いたとしても、そんな俯瞰した視点では見たこともない…そもそも、誰からも正確な証言を得ることができない家を作るのが、この田端の家の復元作業でした。

それではこのプロジェクトは、不可能なのでしょうか。学芸員の私ができること、それは芥川龍之介自身が残した家に関する言葉、また家族がエッセイを書いていましたので、家族の証言、そして書斎を訪ねた多くの友人知人、主に同時代の文士たちが書き残している証言ですね、現存する白黒写真や遺品など…こういったあくまでも当時、田端の家に実際に触れた資料を集めることです。この点にこだわって作ったのがこちら(スクリーンを指して)になります。


【庄司教授】さて、先ほどのご紹介の時にもお話ししましたが、この田端の芥川の家の復元作業というのは大変な話題になりまして、再現のレベルといったら失礼な言い方かも知れないのですが、書斎の再現とか、お庭とか、その再現の度合いが大変なレベルにきているんだなと。本当に館の皆さま、特に木口さんのお力の発揮の仕方が非常に高いレヴェルで達成されていることに驚いています。この教室にも、僕の講義の課題などの関係で既に見たことのある方が居られると思うのですが、同じような感想を持って下さったと思います。記念館では映像も流していますが、その映像、小さいカメラ、マイクロカメラみたいな、それで模型の内部を写しているんですね。。家の中を見ましょうということで……。書斎など、この復元された家の中のあちこちにカメラを入れておられるのですけれども、我々研究者の目にも、一般の方の好奇心に溢れた目にも、充分に耐えるものをきちんと作っておられるわけです。これは非常に大変なお仕事だったと思いますね。最近芥川家から寄贈があったという、室生犀星が芥川に贈った深い鉢があるのですが、それも再現をして、新しいアイテムとしてそこに加え、どうぞ見てくださいということをやっておられて、面白い良いお仕事だなと思いました。僕らはこの模型を通して、芥川さんってのはこう言う生活をこう言う場所で送っていたんだな、というのをかなりリアルな形でとらえることができるようになったのだと思います。


記念館にこれから必要なものとは何かを
常に考えてきました。

リニューアルにあたって、決して潤沢とは言えない限られた予算の中で何をするか、何ができるかを考えなければなりませんでした。田端にとって効果的なアピールポイントは、やはり芥川龍之介です。作家になってからのほとんどの時代を田端で過ごしているにも関わらず、それまで、一般的に知られている土地との繋がりは、龍之介が育った「両国」でした。龍之介自身、「両国」についての作品を書き残しておりますし。さらに、「芥川龍之介」と「田端」を関連付けてアピールするにしても、当館には人を呼び込めるような、資料や展示物がない、そしてすでに大部分の資料が日本近代文学館をはじめとする多くの館で所蔵されている中、このタイミングで目玉となる資料が新たに発見されるとは思えません。発見されたとしても今回の予算で購入できる見込みはありませんでした。

そこで、資料や展示物が買えなければ、作ってしまおうという発想に転換したんですね。それが「芥川龍之介 田端の家復元模型」でした。

与えられた時間は半年です。先程お話ししたように、とにかく実際に見た方の証言が得られないのですから、資料を集めなければなりません。

そもそも私の大学時代の専門は、芥川龍之介でもなければ、文学でもありません。私は現代美術が専門でしたので、縁があって田端文士村記念館の学芸員として配属することになったのですが、やはり美術館と比較すると文学館の展示というのは、ビジュアルとしてあまり魅力的とは言えないのではないかという気持ちが常にありました。例えば、皆様にとても好きな作家さんがいたとして、漫画家さんでもいいですし、その原稿なり原画などを展示している文学館に足を運んで、当館は無料ですけれど、一般的には1000円とか1500円を払いますよね。お金を払って何かを見るために足を運ぶということ自体、かなりハードルが高いことであるとは思います。加えて文学館はなんとなく閉鎖的なイメージがあり、あるテーマを設けて展示を企画しても、余程の愛好者や研究者しか興味を持たないのではないかと危惧するわけです。

私は大学時代、展示論に興味があり、前職はアパレルのディスプレイデザイナーだったので、とにかく博物館の展示にも視覚的な魅力が大切なのではないかと常々感じています。具体的に言えば、多くの文学館が原稿を展示ケースの中で平らに展示します。この展示方法は一番紙を傷めないですし、保存という面においては一番いいのかもしれない…ただ、これをちょっと立ち上げて、立体的に見せた時の見え方について、資料の魅力の伝わり方について、意識することが非常に少ないというか、発想がないのかもしれません。展示する側は、文学に思い入れがあって、作家さんたちにも思い入れがあるので、「この人の直筆資料を見られたらそれで満足」となってしまいがちです。しかし、資料そのものの魅力だけではなく、展示の魅力付けによって、もっと受け取り手の感覚を刺激できるかもしれない、とは思いませんか。現代美術においては、インスタレーションという手法があって、展示空間というのをすごく重要視します。アーティストの方はやはり自分の作品がどういう状況で、つまりどういう壁紙の色で、どういう空間で、どういう順番で展示されるのかというのをすごく気にします。それはいかに一つの作品を魅力的に見せるかということにとてもこだわりがあるからだと思います。

文学館でも、かつての初版本など、視覚的に素敵なものがたくさんある訳ですし、どういう台の色の上に置いたら映えるかとか、どういう字体を使って説明をすればいいのかとか、そういうことで資料の魅力をどんどんとアピールすることができるのではないかと思いますね。そういう視点が文学館には足りないのかなとは常々思っておりまして…この模型を作るにしても、実は復元模型なんて特別新しい発想でもなく、これまでも色々な館にあったりするのですが、セミナー写真2そうした中で、これだけ新聞やテレビが取り上げてくださったのは、やはり「芥川龍之介の家」というインパクトと、今までの復元模型と違う精密さや、とにかく魅せ方を重視したのが伝わったのかなと思っています。

意識的に行ったこととしては、まず観覧するターゲットを特定しないこと。性別年齢、そして知識、人によって様々差があるとは思いますけれど、誰が見ても違う楽しみ方ができるようなものにしようというのが一番大きな目標でした。資料がなくて作ったものは、小物でいうと3つくらいしかないのですが、庄司先生のような芥川研究者の方がいらして、この書斎を見ると、「これはあれだね、これはあれだね」という風に、知識がある方はそういった楽しみ方ができますし、例えばお子さんが来てこの家を見たときに、「昭和とか大正時代の家ってこういう雰囲気だったんだ」みたいなものを、感じて楽しんでいただけます。また最近では、海外の方もいらしていただけるようになりましたので、外国人がかつての日本人の小説家の暮らしぶりを視覚的に理解するのに役立っています。今は、作品に触れるよりもまずは人の魅力を伝えた方が、興味を持っていただけるのかもしれません。作品から入る方は本当に文学が好きな方なのではないかと…。私はこの記念館には、文学が好きじゃないと感じている方にも来ていただきたいと思っています。

記念館に大切なことは、イベントごとに来館者を増やすということではなく、コンスタントな入館者数を底上げするということです。そのためにはやはりターゲットを例えば「文豪女子」と言われるような方々だけに頼るのではなく、なるべく広く、あらゆる人に向けて魅力的に見せる、そういった展示空間を設計していかなければならないのです。

セミナー写真2

芥川の家の模型が入ったことで、
誰もが楽しめるものになったことは確かですね

【庄司教授】実際に、僕も展覧会をお手伝いした経験が幾度かあるのですが、文学の展覧会というのは、原稿用紙や書籍を中心に展観しますから、やはり紙ですから、白いんです、世界が。壁も白いから無機質みたいな。これではつまらないので、色のあるものをいっぱい入れましょうと、初版本とかいろいろな色のある物を展示物に加えたんです。そうするとやっと奥行きとか幅の広さが出てくるのですね。しかし、物をどう置いて、どう見せるかというのは文学展の場合とても難しいのですね。それに加えて、文学館には保存っていう仕事もあるので、保存と公開っていう相容れないものをどうやるかっていう課題も文学館の方々はお持ちです。原稿用紙などを蛍光灯の下にずっと置いていたら、蛍光灯の光でインクが飛んでしまいます。しかし、展示はしないといけない。そこで、レプリカ(複製)を制作しておくようになるのです。保存の観点から言えばレプリカが良いのです。それに最近は、レプリカの精度が高くなりました。本物が置いている以上に本物らしい、なんて冗談を言うくらいに、そういうような状況になっています。
 そういう中で、田端文士村記念館が、今回その建物、模型をお作りになって、展示を見に来る皆さんが、これまでとは異なる形で芥川龍之介さんや彼の文学の世界を楽しめることになりましたね。極端なことを云えば、この模型によって字を読まなくても芥川さんの世界に触れることができるのです。文学館と美術館の違いって絵を見て面白いとかつまらないといえるような世界が、文学館は字を読んで理解したところで初めてものが言えるから、ちょっと敷居が高かったんですが、そういう意味ではこういうものを見て、瓦1枚見るのが楽しい、みたいなところがとても大切な要素ですね。

セミナー写真4この模型ができたときのマスコミでの取り上げられ方は大きいものでしたね。乱暴な言い方になりますが、マスコミが食らいつきました。こんなに芥川さんの家の模型が商品価値があるっていうか、僕は観光財って良く云うのですが、商品力があるということなのですが、その力が芥川さんや彼の文学には溢れるほどある、と改めて思いました。
 それと、もう少し模型の中身にこだわってみたいのですが、例えば、皆さんは庭にある木に芥川さんが登っているのは気づいておられますか?  僕は、あの芥川さんが登った木はなんの木なのかを以前に一所懸命調べたんですけど、あれ1つ調べるだけでもいろいろな人の文章を読み、事典を調べ、初めてこれは椎の木でしたと。芥川さんは椎の木に登ったんだったらこの時季でもいいのかな、などと葉っぱが青いんだとか、いろいろなことを考えてました。その経験から云えば、あの木一つとっても再現性がとても高いので、驚嘆しているのです。どれだけ詳しくお調べになられたか、その成果が至る所に確認されるのです。誰が見ても、芥川さんや芥川文学を好きじゃなくても、いろいろな楽しみ方があるのだと思います。この模型を作るための努力、積み重ねが感じられると思います。
 それと、「河童忌」のお話をしていいですか。木口さんがおやりになったお仕事の中に、河童忌の復活ということがあります。芥川龍之介の命日、これを「河童忌」と呼んでいるのです。芥川文学のファンの方々は河童忌の日にお墓参りをされる、そんな日であるわけです。その河童忌について、よくお調べになられました。おそらくは、芥川研究者も含めて河童忌について1番詳しい方なのではないでしょうか、木口さんは。実に細かな点まで調べておられ、とにかく事実を探究された。いつから「河童忌」と呼ばれるようになったか、とか、それでは、その前には何と呼ばれていたか、とか……

田端と芥川、そして記念館とさらなる計画、
偉大な文豪は今も人の心に生きている

昨年、芥川龍之介が没後90年を迎えまして、その年の7月24日に、当館主催で「河童忌」を開催しました。このきっかけとなったのが、先程からお話ししていますけれど、「田端=芥川」というイメージをどうにか定着させたいという思いです。例えば、太宰治の「桜桃忌」などは有名ですよね。「河童忌」という言葉もなんとなく聞いたことがあるかもしれないですが、その龍之介の命日にイベントを開催し、毎年「田端」に集まってもらうように企画をすれば、そこで「芥川」と「田端」のイメージが繋がるのではないかと、そう考えました。心強いことに、ご遺族の多大なるご協力も賜ることができました。

そもそも「河童忌」とは何かと調べたところ、意外にこれまで注目されておりませんでした。昭和2年7月24日に亡くなって、翌年、一周忌の法要は一か月前倒しの6月24日、次の年は7月24日に三回忌が行われています。その後は、一般的に七回忌、十三回忌…といった具合に続くものなのですが、龍之介の場合、昭和18年まで、一年も欠かさすことなく、毎年、命日には田端に友人知人が集まり、偲ぶ会を催しています。集まった場所は、養父・道章の友人・宮崎直次郎が店主を務めた「天然自笑軒」です。昭和5年より、その様子は『文藝春秋』9月号で報告されるようになりました。その初回のタイトルが「河童忌記念帖」です。その時すでに、偲ぶ会は「河童忌」と呼ばれていたんですね。昭和18年になりますと、龍之介の息子たちも徴兵され、戦時色も強まりますので、年に1回とはいえ、集まることは難しくなったようです。戦後は不定期開催で、『文藝春秋』誌上での報告などもなくなりました。公での開催の記録は、昭和51年、50回忌が最後ではないでしょうか。奇しくも昭和51年7月24日は、芥川龍之介賞の贈呈式にあたり、その時受賞したのは村上龍さんでした。

このような歴史をもつ「河童忌」を、当館が世話役となって復活させたのが、昨年のことです。第1回は月曜日、記念館は休館日でしたので、残念ながら、田端でもなく北区でもないですが、龍之介の墓所のある巣鴨の慈眼寺に、ご応募でお集まりになられた方たちをご案内する、というガイドツアーを企画しました。全国より総勢70名、龍之介のご遺族であるご令孫、ご曽孫と共に、お墓参りをして芥川龍之介を偲びました。そして今年の「河童忌」は当館で朗読会…来年も継続して開催していきたいと思います。

芥川龍之介の最新情報を最後に。地道な活動で「芥川」=「田端」のイメージをなんとか定着させようと動いていたのですが、それが結実するようなニュースが発表されました。今年6月、芥川龍之介の旧居跡地の一部を北区が購入することが決まり、未だ仮称ではありますが「芥川龍之介記念館」設立に向け、動き出しています。芥川龍之介を単独で顕彰する文学館はこれまでないので、日本初、世界初となります。今後も当館をはじめ、新たな記念館についても宜しくお願いいたします。ご清聴ありがとうございました。


【庄司教授】お話、よくわかりました。芥川龍之介が今の時代にも放っている輝きというか、魅力について楽しくお話を伺いました。木口先生はじめ、田端文士村記念館の皆さまのご努力に対して、敬意を表したいと思います。本日は、誠にありがとうございました。

セミナー取材にあたって

セミナー写真3

今回のセミナーを取材させていただいて感じたのは、講師の木口先生にしても、担当の庄司先生にしても、芥川龍之介を心底愛していらしゃるということです。また、木口先生は、もともと空間デザインの方にも詳しく、田端文学記念館に芥川家の超精密な復元模型を置くという、空間ディスプレィの手法を企画されたとのこと、驚きでした。また、田端という一般にはそれほど詳しく知られていないエリアにも、研究すればするほど、興味深い歴史があるということにも驚きました。
おそらく全国各地に、それぞれの深い歴史があるんだろうなと、それぞれが自分のふるさとにも思いを馳せたのではないでしょうか?

セミナー写真3