KIGUCHI NAOKO & SHOUJI TATSUYA Seminar04   KIGUCHI NAOKO & SHOUJI TATSUYA Seminar04

研究セミナー特集

Seminar04 土地の歴史を現在(いま)の魅力に 田端文士村記念館に於ける地域活性化への文化的アプローチ

開催日 / 2018年12月10日(月)開催
開催会場 / 横浜市立大学 金沢八景キャンパス YCUスクエア Y204
講演 / 木口 直子 田端文士村記念館 学芸員
担当教員 / 庄司 達也先生

1. 木口 直子 学芸員による講演(続き)

芥川が田端で過ごした頃の情景を想い、
この地の時の流れに触れてみる

セミナー写真1

ところで、本日は皆様に緑色のパンフレットをお渡ししております。蛇腹折りになっていて、それを広げていただくと裏に「田端散策マップ」が出てきます。芥川龍之介の家、見つかりますか? 転入から約1ヶ月経った頃、龍之介は高等学校時代からの親友・井川恭に宛てた書簡に、当時の「芸術家村」の様子を書いています。

「近所にポプラア倶楽部を中心とした画かき村があるだけに外へでると黒のソフトによく逢着する 逢着する度に芸術が紺絣を着てあるいてゐるやうな気がする…」

この「ポプラ倶楽部」は、今ご覧いただいている地図の真ん中あたりに出てきます。先程ご紹介した小杉放庵を中心として、芸術家たちが集まるサロンのようなものを作りたい、そして何か皆でスポーツをしたい、ということでテニスが選ばれ、明治43年頃に「ポプラ倶楽部」が出来ました。倶楽部のメンバーの中に小豆島出身の者がおり、郷里からポプラの苗木を取り寄せて、テニスコートの脇に植えたところ、これが成長して田端の風物となったことから、「ポプラ倶楽部」と名付けられたと言われています。このような風景を龍之介が目にして友人宛に書いたのが、先程の手紙です。

さて、話を芥川に戻しましょう。大正4年、東京帝国大学の後輩で、後の建築学者・矢羽真弓に宛てた書簡には、龍之介が描いた、駅から自宅までの地図があります。この地図には「新ステーション」、「旧ステーション」という表記があります。この「旧ステーション」は、先程よりご紹介しております正岡子規の証言した場所にあり、「新ステーション」へと駅が移転したのが確認できます。余談ですが、龍之介も駅を「ステーション」と呼んでいたことも分かりますね。この年、田端には貨物操車場も開設しています。

龍之介の転入後、文士たちが少しずつ移り住むようになり、田端での交流が育まれていきました。もともとの「芸術家村」に文士が加わり、いよいよ「文士芸術家村」となっていったのです。やがて昭和20年の空襲で、こうした独特の文化も終焉を迎えるわけですが、この時期、大正中・後期がまさに最盛期と言えるでしょう。

セミナー写真2

大正8年頃より、田端には芸術家と文士の双方が交流する「道閑会」と呼ばれた集まりが始まるようになりました。そこでは実業家が出資者となって、文士、芸術家の垣根を超えた親睦が図られており、大正10年11月、芥川家に土地を紹介した宮崎が店主を務める料亭、「天然自笑軒」で行われた時の様子が写真に残っています。

そして、大正12年9月1日、関東大震災が起こり、田端の街に思わぬ変化をもたらしました。吉村昭の「関東大震災」という作品がありますが、それによりますと上野駅は焼失し、食糧事情の緩和と治安恢復のため、一刻も早く罹災民を地方に分散させたいとのねらいから、鉄道省は9月3日、一般避難民の列車輸送を無賃にすると発表、翌日から実施されました。その際に焼失した上野駅の代わりとなった、東北線、信越線の始発駅である日暮里駅の混雑が甚だしいので、それを緩和するため、東北線の始発駅を田端に変更するという措置がとられました。

「一、汽車に依れば、各地方どこでも無賃で行かれます 二、東北本線は、田端駅から 三、信越線は、日暮里駅から 四、関西方面には、信越線篠ノ井から中央線経由で行かれます」という内容を記したポスターが掲示されるようになり、これを見た避難民たちが田端駅に殺到します。この時の田端駅は、先程ご紹介した、龍之介が描いたいわゆる「新ステーション」で、今の田端駅よりやや駒込よりにあったようです。当時の大阪朝日新聞にもこの田端駅の大混雑の様子が写真付きで紹介されています。

この震災は、結果として集まった避難民に、田端周辺の土地が「いかに被害が少なかったか」ということを目の当たりにさせました。今もそうですが、特に震災の直後など、「どこの土地の地盤が強いのか」というのを気にしますよね。そのような訳で、避難してきた人がそのまま暮らすことも多くなり、やがて新興住宅地として、田端は発展していきます。人が増えるにしたがって、文士、芸術家ばかりであった田端の街の雰囲気は、次第に変化していくようになりました。

そして、昭和2年7月24日に芥川龍之介の自死という事件が起こります。これによって田端では、文士たちの求心力が急激に弱まるようになってきます。龍之介が亡くなった直後の様子を画家・小穴隆一が文章で残しています。

「芥川家の人は取りみだした姿ではなかつた。いつかは死ぬ、芥川のさういつた豫告?のやうな月日がながすぎた。皆の神經をくたびれさせきつてゐた。(略)僕はF十號の畫布に木炭で芥川の死顔の下圖をつけてゐた。「繪具をつけるの?」「つけないの?」比呂志君がさう心配して畫架のまはりをうろついてゐた。」

この比呂志君というのは息子が3人いた龍之介の長男にあたる方です。後の俳優・芥川比呂志さんですね。

貴重な文化の終焉、
それを再発見・再構築したいというほとばしる意欲

もう少しだけ、田端の歴史を続けて見てみましょう。昭和5年に発行された「新大東京全図」には田端の駅が2つ書かれています。昭和3年、京浜線は赤羽への開通計画を目指し、田端駅において京浜線と山手線の分岐点となる改造を始めました。そのとき駒込駅寄りにあった田端駅が現在の位置に作られたようです。

昭和8年の地図を見ると、だいたい現在の位置に定着しているのがわかります。2つに分かれているのは北口と南口にあたるようです。今も南口には、不動坂というかつての坂の一部が残っており、まさしくそこは龍之介が駅に向かって歩いた通学路の名残りになります。

平成5年に開館し、25年目を迎えた田端文士村記念館では、約1年を通して、明治、大正、昭和、3期に分けた展示を開催しております。今は、「昭和の田端」を開催中ですが、サブタイトルにもあるように、「喪失と復興」をテーマにご紹介しています。「喪失」とは、昭和2年7月24日の芥川龍之介の死、そして日本の戦争の歴史です。とくに戦争は、文士、芸術家たちの作品にも大きく影響を与えていました。昭和20年4月31日、大空襲により田端が灰燼に帰した様子は、近藤富枝の「田端炎上」という作品にも書かれています。

「田端芸術村の終焉である。火の海の向うに芥川龍之介の家も、室生犀星の旧宅も、板谷波山の窯もある。私の卒業した滝野川第一小学校も灰になったかもしれない・・・・・・。」 まさにその日、田端の歴史が一つの区切りを迎えました。

戦争によって地域の文化は失われましたが、その後も歴史は続きます。田端では人々が暮らし、生き続けています。かつての輝かしい芸術と文学の街、そして今に繋がる田端の魅力をどう研究し、伝えていけばよいか、今回の展示の集大成は、私達、田端文士村記念館の役割というものを考えることでもあったのです。つまり、「喪失」の先にある「復興」へと展示を導きたい訳です。芥川家を例に出しても、龍之介没後、長男・比呂志は舞台俳優として、三男・也寸志も音楽家として活躍されています。才能を受け継ぐ第二世代は、「復興」の象徴とも言えるのではないでしょうか。今回の展示では初めての試みとして、この第二世代の活躍にも焦点を当てています。

さて、「文士村」ですが、田端のことだけに限るものではありません。同じように文士たちが集まった地域がありました。例えば、ここから一番近いのは「馬込文士村」です。大正後期から昭和初期、川端康成、萩原朔太郎など、多くの文士が馬込に転入しました。龍之介が亡くなると、室生犀星も朔太郎を追ってこの地に移り住んでいます。また、本郷にも東京帝国大学がありましたので、たくさんの文士たちがいました。龍之介が一時滞在していた鎌倉などにも、もう少し遅い年代ですが、「文士村」の様相を呈していた時期があります。このような街の共通点として、一つには、もともと、のどかな農村地帯にできた郊外の新興住宅地であるということ。そのため、家賃や土地の賃借料が手頃であったこと。文士や芸術家は、特に若い時代には裕福な方が少ないですので、このような土地を選ぶ傾向があります。

セミナー写真2

そして、直接的なコミュニケーションを求めた時代ですので、人が人を呼ぶ連鎖が起こります。例を挙げれば、龍之介が一時鎌倉に暮らしていた時、つまり龍之介が文壇の中心になる前のことです。その頃の文壇の中心は誰かというと、やはり夏目漱石ですね。漱石山房記念館が昨年9月に開館されましたが、まさにその場所が中心と言えるでしょう。漱石が亡くなった後、いよいよ龍之介が文壇の中心となると、その場所は「田端の家」に移ります。そこで、中心人物との直接的なコミュニケーションを求め、田端に文士たちが次々と移り住んでくるのです。

一方、「田端」に見られる特徴としては、他の「文士村」に比べて、土地が約1キロ四方というごくごく狭い範囲であったということ。そして最盛期が関東大震災以前という比較的早い時期であったこと。また、きっかけが東京美術学校であったため、文士と芸術家のジャンルを超えた交流が生まれたということなどが挙げられます。

この田端の歴史については、昭和50年、作家・近藤富枝が『田端文士村』という本を書いたことで、初めて公に知られるようになりました。近藤富枝自身、先程「田端炎上」という作品でもご紹介しましたが、田端に暮らし、文士芸術家村終焉のその日に立ち会った方です。セミナー写真2執筆のために取材をしていた昭和49,50年頃というのは、田端ゆかりの文士芸術家の二世に当たる方々に直接お話を伺うことができる時代でしたので、そうした方にお話を聞きながら、フィールドワークのようなことを行い、『田端文士村』の本が誕生したのです。昭和55年には第一回「古い田端を語る会」が開催され、これを契機に、「田端文士芸術家村調査会」が発足しまして、ご遺族の多大なるご協力を経て、平成5年に田端文士村記念館が開館にいたっております。

今から3年前、2015年、当館は展示室拡張のため、常設展示スペースを新設し、リニューアルすることになりました。その際、田端文士村記念館の今後を見据え、強みというか何が魅力であるかを考えた時に、皆様にもお配りしたパンフレットにもありますが、「文学散歩」に辿り着きました。昭和20年に全て焼けてしまった土地、今では遺構が何もない土地であるにも関わらず、たくさんの方々が当館のこのパンフレットの地図を片手に「文学散歩」に訪れている、言ってしまえば「何もない文学散歩」をしてくださっているのです。この現状に少しでも当時の雰囲気を実感できるような視覚的資料を付け加えることができたらという思いがあり、「田端文士芸術家村」の象徴的な場所である、「芥川龍之介の田端の家」を模型で復元するというプロジェクトを立ち上げることになりました。お蔭様でこのリニューアルは、新聞やテレビなどが取り上げてくださいまして、とくに「芥川」と「田端」のイメージが、一般にも広く浸透するようになりました。記念館の強みが明確になり、文士たちが闊歩した田端の歴史を再び可視化する、という関係者の情熱が、今までにない何かを作ろうという、モチベーションになったのではないかと思います。