KIGUCHI NAOKO & SHOUJI TATSUYA Seminar04   KIGUCHI NAOKO & SHOUJI TATSUYA Seminar04

研究セミナー特集

Seminar04 土地の歴史を現在(いま)の魅力に 田端文士村記念館に於ける地域活性化への文化的アプローチ

開催日 / 2018年12月10日(月)開催
開催会場 / 横浜市立大学 金沢八景キャンパス YCUスクエア Y204
講演 / 木口 直子 田端文士村記念館 学芸員
担当教員 / 庄司 達也先生

1. 木口 直子 学芸員による講演

木口直子氏

NAOKO KIGUCHI木口直子氏

木口直子氏

 現在、田端文士村記念館に学芸員として在籍。晩年をこの地で過ごした芥川龍之介のさまざまな交流関係や、考え方、生活、作品の変遷などを資料や文献をもとに研究している。田端というエリアが、かつては多くの文士を抱える街であったことなどを含め、知られざる地域の歴史を今の若い人たちにどうしたら伝えることができるだろうかと考えた末、芥川の田端の家を復元模型として制作し、展示を企画。苦労を重ねながらも完成させるなど、行動的な側面も併せ持つ。
 正岡子規をはじめとする田端ゆかりの文士・芸術家についての知識も深く、我が国の近代文学を俯瞰的に語ることのできる知識人でもある。

庄司 達也教授

SHOJI TATSUYA庄司 達也教授

庄司 達也教授

 横浜市立大学学術院国際総合科学群教授。
 芥川龍之介の〈人〉と〈文学〉を主たる研究テーマとし、出版メディアと作家、読者の関係にも関心を持っています。また、作家が聴いた音楽を蓄音機とSPレコードで再現するレコード・コンサートなども企画・開催しています。
 編著書に『芥川龍之介ハンドブック』(鼎書房)、『改造社のメディア戦略』(双文社出版)、『芥川龍之介全作品事典』(勉誠出版)など。

研究者が見たこと、聞いたこと、
知ったことをどう多くの人に伝えるか?

こんにちは、本日はお招きいただきまして誠にありがとうございます。JR田端駅北口の駅前にあります田端文士村記念館(※)で学芸員をしております。いらしたことのある方はどれくらいいらっしゃいますでしょうか。お会いしたことがある方もいらっしゃいますね。 つい最近の話題として、山手線の新しい駅名が「高輪ゲートウェイ」に決まったようですが、ゲートウェイっぽくした山手線の路線図というのがツイッターで話題になっていて、「新橋サラリーマンサンクチュアリ」とか、「西日暮里エリートスクール」とか…。これは開成のことですね。また、「有楽町オールモスト銀座」とか、「巣鴨グランドマザー」などいろいろとユニークなものが考えられています。では、田端はなんだと思いますか?なんと田端は「ナッシング」という名前を付けられました、「何もない」ことが田端の特徴であるかのように言われています(苦笑)。ただそれに対してちょっとだけ追い風になるようなツイッターも発見いたしまして、「田端には田端文士村記念館がある」とツイートしてくださった方が何人かいらっしゃいました。これはそこに勤め、研究しているものとしては大変光栄で嬉しかったです。

田端もそうなのですが、北区自体、どういったところなのか、近隣の方以外、あまり知られていないかもしれません。大きく分けると赤羽地区と王子地区、田端を含む滝野川地区に分かれています。赤羽はエレファントカシマシさんの楽曲が駅の発着メロディになったり、楽曲が北区花火会で使用されたりといったことで、最近話題になりました。また、「せんべろ」という言葉を聞いたことありますか?「1000円でベロベロに酔える」くらい安い居酒屋さんがあるという意味で、そういったことでもメディアに取り上げられたりしています。また、王子は桜の名所として有名な飛鳥山公園があり、歴史のある町です。そして、今回のセミナーのテーマでもある「田端」なのですが、基本的には住宅地で、何もないと思われています。

セミナー写真1

実はこの「田端」という街、かつて芥川龍之介をはじめ、我が国を代表するような文士たちが続々と集まっていたり、それ以前にも芸術家たちがたくさん暮らしていたりと、これまでなかなか周知されていない意外な歴史があります。今回はそうした知られざる地域の歴史をどのようにとらえ、伝えていくか、とそんなお話になります。

私は、いつもですと田端文士村記念館の学芸員として、田端の約1キロ四方の狭い中で、芥川龍之介をはじめとする100人以上の文士・芸術家たちが、明治の終わりから昭和20年に戦災で焼けるまで、およそ50年間に紡いだ歴史についてのお話をさせていただく事が多いのですが、今回は少し趣向を変えて、研究に基づく学術的な話というよりは、研究者、学芸員がどのように、自分の見たこと、知ったことを人に伝えていくのか、その実際の仕事がどういったものなのか、あくまで現場に立つ者の一人としての私見なども多分に含まれますが、お話をしていきたいと思います。

※【田端文士村記念館】平成5年設立。公益財団法人北区文化振興財団によって管理・運営される記念館。芥川龍之介をはじめ、田端で活躍した文士・芸術家の功績を紹介し、「田端文士芸術家村」という歴史を後世に継承していくことを目的とする。文士・芸術家たちの作品、原稿、書簡等の資料を展示するとともに、散策会や講演会などを開催している。
サイトURL:https://kitabunka.or.jp/tabata/

セミナー写真1

昔の田端というエリアを文献から調査することで
当時の細かい様子が垣間見えてきます。

まずは、田端の街の成り立ちについてご紹介します。「田の端」と書くくらいですから明治の中頃までは、一面の農村地帯でした。その街を大きく変化させたのが鉄道です。山手線の中でも地味な駅と言われている田端ではありますが、実は田端駅の開業は明治29年、山手線全29駅の中でも8番目に古い駅です。(スクリーンを指して)こちらの絵は、鉄道ができる前、伊藤晴雨という画家が描いた田端の風景画です。現在もあります東覚寺、八幡神社が確認できます。この川は谷田川といい、藍染川などと名前を変えながら不忍池まで注いでいます。この風景に鉄道が加わり、人の動きにも変化が見られるようになりました。

駅の開業より少し前の明治22年、上野に東京美術学校、現在の東京藝術大学が開校すると、その付近には画家たちによる私塾なども集まるようになり、上野で芸術を学ぶ若者がたくさん増えてきます。この頃、上野周辺では池之端や、少し歩いて現在「谷根千」と言われているようなエリアがあり、そのあたりは土地代が高く、学生の皆様が住居を求めるには難しい、それでは台地続きで歩いて通える距離にあり、かつ家賃も手頃なところはどこだろうと探したときに、いよいよ「田端」が登場するのです。

さて、先程の鉄道の話に戻り、地図をいくつかご覧いただきます。明治25年の田端付近の地図です。明治16年に開業した日本鐡道會社線が走っている様子が確認できます、まだ田端村には駅はないですよね。当時は上野―熊谷間で開業した私鉄鉄道の上野駅と赤羽駅の間の部分にあたります。

セミナー写真2

そして明治29年4月1日、ついに田端駅が開業しました。当時の駅の開業を伝える新聞記事がこちらです。興味深いことに停車場という言葉にわざわざルビで「ステーション」とふってあるんですね。当時の資料を見ていると、現在の「駅」に当たる言葉は漢字で書かれた停車場、またカタカナで書かれたステーションなどが混在して使用されているのがわかります。意外にモダンな表現をしていたんだなと、びっくりします。明治32年に正岡子規が書いた紀行文に、「道灌山」という作品がありますが、そこには田端停車場の周りには何があるか、といったことが書かれております。開業当時の資料が非常に少ない中で、この正岡子規の証言は有力な情報になるわけです。

セミナー写真2

その文章によると、今の駅がある位置よりも下、ホームの位置あたりに駅舎があって、そこから崖を60メートルくらい、車夫が一人通るくらいの細い道で坂が続いていた様子などがわかります。当時、田端駅がどこにあったかといいますと、「胞衣神社の前の茶店に憩ふ。此茶店此頃出来たる者にて田端停車場の眞上にあり」と書かれています。胞衣神社があった場所は、現在の田端駅南口よりも少し西日暮里駅側ですので、この神社前の茶店が駅の真上にあたる、つまり駅が茶店の真下ということですね、この記述を文字通りに解釈すると、田端駅は今よりも西日暮里側にずれていたのではないか、といったことが推測されていきます。まさしくその位置にあった駅を芥川龍之介は東京帝国大学に通うときに利用し、上野まで、当時はまだ環状線にはなっておりませんでしたが、山手線に乗って通学した、ということになります。さらに、龍之介の「年末の一日」という作品の中には、夏目漱石の墓参からの帰り道、自宅近くの坂に差し掛かったところで、胞衣会社の車押しをする場面が出てきます。この「胞衣」という言葉、何のことだか分かりますか。かつて自宅出産が多かった時代、子供が生まれると、「胞衣」つまり胎盤を、子供の成長を願って、屋敷内に埋めるという風習がありました。人がよく歩く場所を選んで、踏み固められることで、現世に根付いて欲しいという願いが込められていたそうです。時代が進むと、自宅の敷地内ではなく、胞衣会社が収集するようになりました。この胞衣を祀っているのが胞衣神社です。古くは縄文時代に遡ることができます。青森県の三内丸山遺跡からは、胞衣を入れる胞衣壺が出土しており、古くからある日本の風習のようです。このように、研究していると周辺情報も含め、いろいろなことが分かってきます。

ナウマンゾウと芸術家の街、そして芥川龍之介の登場

研究が進むにつれ、何もないと思われた明治時代以前の田端にも、意外な一面を発掘することができます。明治32年、田端駅脇の役宅、つまり鉄道官舎を工事する際、日本人による脊椎動物の化石研究の端緒ともなる大発見がありました。当時の雑誌にも記事になっていますが、ナウマンゾウの切歯と一対の臼歯が掘り出されたのです。こちらは「田端標本」と呼ばれ、現在、東京大学総合研究博物館に保管され、複製が北区飛鳥山博物館にも常設展示されています。田端は化石が眠っている街でもあるようなんです。

そして、その発見の翌年の明治33年、田端で1人の学生が自炊生活を始めるようになりました。それが小杉未醒、後の放庵という画家です。この方が草分け的な存在となり、田端は徐々に芸術家村を形成し始めることになります。小杉放庵は洋画家・小山正太郎が千駄木に開いた「不同舎」という画塾に通っていました。洋画家を目指して上京したのですが、大正13年に欧州に渡ると、現地では反対に東洋主義に目覚め、次第に日本画へと傾倒していきました。代表作には東京大学安田講堂の壁画があります。

続いて明治36年、近代陶芸を代表する陶芸家・板谷波山が転入します。なぜこの地を選んだかというと、当時は田端からでも筑波山がよく見えたからだそうです。波山の名は、筑波山から付けられています。茨城県下館、現在の筑西市で生まれた波山は、陶芸家を目指し上京しますが、開校間もない東京美術学校にはまだ陶芸科がありませんでしたので、彫刻科を卒業しました。石川県工業学校木彫科教諭を経て、再び上京し、居を構えたのが田端でした。京都にある、泉屋博古館の分館が六本木にありますが、所蔵されている「葆光彩磁珍果文花瓶」は、波山にとっての出世作であり、現在では重要文化財にも指定されている、最も有名な作品です。陶芸界で初めて文化勲章を受賞したのが波山です。それまで日常品であった陶器を初めて芸術の域まで高めた方で、日本の近代陶芸における功労者と呼ばれております。先程ご紹介した小杉放庵が絵を描いて、板谷波山の窯で作陶された「大雅堂瀟湘八景扇面小皿」が、当館で常設展示されております。多くの芸術家たちが田端という、約1キロ四方のごくごく狭い中で暮らしていましたので、このように合作のような珍しい作品も残っています。

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この他にも、明治の終わりから大正初期には、画家をはじめ、彫刻家、鋳金家、陶芸家など、若い芸術家たちがどんどん田端へと移り住むようになりました。当時は不動産会社などない時代ですので、若者たち、学生の方達がどこかに家を探すとすると、口コミも重要ですよね、人が人を呼んで、芸術家たちが集まってくるようになったのではないでしょうか。

そこにいよいよ芥川龍之介一家が転入してきます。大正3年の10月頃です。龍之介は当時22歳、東京帝国大学の学生でした。

芥川家が田端に転入した経緯を簡単にご説明します。龍之介は生後7ヶ月の時に母親が精神的な病に陥ったことによって、母親の兄の元、両国の旧家である芥川家へと養子に出されます。東京府の役人だった養父・芥川道章は明治28年より退職する明治31年まで、戸籍、衛生、などを担当する内務部第五課長という役職を務めていたようです。明治30年5月前後、現在の田端駅からバスに乗って10分ほどの駒込病院、その病院が臨時から常設の伝染病院となるに伴い、道章は伝染病を所管する担当課長として、病院の事務を統括する仕事をしており、おそらくその際に通勤に田端駅も利用したのではないかということが考えられています。つまり田端に対する土地鑑があったのです。そして明治43年8月、大雨により、荒川の堤防が決壊し、両国の家にも被害が出ると、芥川家は新たな居住の地を探さなければならなくなりました。龍之介の実の父である新原敏三の持ち家、新宿にも一時住みますが、新しく家を建てる土地として、芥川家の菩提寺である慈眼寺というお寺に近い、大塚や田端が候補としてあげられるようになりました。最終的に、養父・道章の友人、宮崎直次郎に紹介された借地、田端435番地に、新たに居を構えることとなったのです。大正3年のことでした。

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