vol.11 クリエイティブに問題を解決できる看護師の育成を目指しています 医学群 老年看護学 教授 叶谷 由佳(かのや・ゆか)

 vol.11 クリエイティブに問題を解決できる看護師の育成を目指しています 医学群 老年看護学 教授 叶谷 由佳(かのや・ゆか)

私が実感した、看護を取り巻く社会の変化

責任の重さと、社会的評価の低さのはざまで

 次に、私が学生だった頃の話をしましょう。短大の看護学科に入学した私は、大きなカルチャーショックを受けました。看護の世界は「これほど勉強することがあるのか」と思うぐらい、授業の密度の濃さや要求されるレベルの高さに驚いたのです。指導教官も厳しい人で、「健康とは何か」という課題をグループで考えてレポートを提出しても、何度もやり直しを命じられました。
 それまで私が持っていた看護師のイメージは、「注射をしてくれる優しい人」という程度でした。こんなにも患者さんのことを考えて、専門的に看護計画を立てることを、自分が勉強して初めて知りました。医療の知識が必要なだけではなく、メンタルや社会性も含めた患者さんの生活全体に合わせて医療をコーディネートするという、そうした責任の重さも感じました。
 看護師の資格は取ったものの、私はまだ勉強が足りないと実感しました。そこで四年制大学の看護学部に編入学し、さらに大学院へと進みました。非常勤の看護師として病院で働いて、現場の苦労を目の当たりにしながら、もっと自分を高めたい思いで学び続けました。
 私を研究へと駆り立てた大きな理由は、看護師が実際に背負っている責任の重さに比べて、あまりにも社会的評価が低いと思ったからです。患者さんのことを一番身近で見ている看護師が、患者さんにとって本当に必要な医療を提案しても、病院組織の中ではその意見が活かされにくいのが実情でした。
 近代看護の創始者であるナイチンゲールは、生涯を通じて勉強を続け、医療の現場に改革をもたらしました。看護師の社会的地位を改善し、一般の方に訴えていくためにも、私も研究者としての力を付けようと決心したのです。

「看護婦」から「看護師」へ。期待される役割も大きく

 私が大学院にいた時期は、戦後から続いた医療制度や教育制度の中で、看護に携わる人材の不足が叫ばれるようになり、日本における看護の実態を変えようと関係者が動き始めていた頃でした。私の周りの教官も、専門教育の見直しを行政に働きかけたり、人材確保のための法整備に向けて動いていました。
 看護を学べる大学が少なく、ましてや大学院で看護学を専攻するという選択肢が限られていた時代から、今では全都道府県に1つは看護系の大学が置かれるようになりました。そこまでに至る歴史や、看護にとって節目になる出来事を間近で目撃できたことは、私にとって貴重な経験でした。
 私自身も、大学院生時代に保健師助産師看護師法(保助看法)[Keyword 1]の改正に向けて、日本看護協会から委託された研究プロジェクトに参加しました。法律家のアドバイスを受けながら、様々な職種に関する法令と比較したり、海外の事情を調べたりして、法改正が現実的になるように提言を行なったのです。その1つが、当時の呼称「看護婦」(男性は「看護士」と呼ばれていた)をやめて、男女統一した名称にしようという内容です。
 「看護師」への名称変更が実現するまでには、それから実に約10年もかかりました。多くの先人の努力もあって、私が常に意識していた看護師をめぐる社会的状況は、ゆっくりと一歩ずつ改善されていると言えるでしょう。
 現在、看護師が重要な職業であることは、ほとんどの人に認知されています。その分だけ、看護師に求められる期待が大きくなっているのも確かです。しかし、病院における看護師の需要と供給のバランスは、依然としてうまく取れていません。人手不足の状態が続いて、多くの看護師が自分の持つ能力を発揮できていないことも課題です。

[Keyword 1]保健師助産師看護師法(保助看法)
看護師や保健師、助産師の行う業務や、免許の交付、試験などについて定めた法律。1948年に制定され、当初は「保健婦助産婦看護婦法」の名称だったが、2001年の法改正で「「看護婦」「看護士」から「看護師」への改称などに伴って、現在の名称に改められた。