以上の事実経過から,委員会では事故が発生した原因及びこれに対する附属病院の対策について検討した。
1 患者移送から麻酔開始までの患者確認について
【原因1】
2人の患者を1人の病棟看護婦が同時に手術室に移送したこと |
事故が発生した1月11日(月)には,当該病棟(第1外科)の入院患者について,3件の手術が,いずれも同時刻の朝9時から予定されていた。当日のフリー業務担当の看護婦Cは,3人の患者を移送しなければならず,3人のうち,まずA氏とB氏を同時に移送し,続いて,残りの1人を移送した。
また,当該病棟では,過去にも,状況によっては,1人の看護婦が,2人の患者を同時に移送したことがあった。
[附属病院の対策]
[委員会における検討結果]
「主治医が手術室まで看護婦とともに移送すること」については,比較的医師の数が多い病院において可能な対応と考えられるが,むしろ,主治医は,麻酔開始前に手術室に入り,患者とカルテを確認し, 麻酔科医と連携して執刀医に引き継ぐことが重要である。
[参照] V−4 手術室の管理運営体制の確立
V−5 病棟の勤務体制の見直し
【原因2】
手術室交換ホールでの患者受け渡し時に患者を取り違えたこと |
病棟看護婦Cは,1番目の患者(A氏)については,病棟名と患者氏名を告げているが,2番目の患者(B氏)の氏名は告げていない。
手術室看護婦Dは,患者(A氏)をB氏と思い込み,病棟看護婦Cに確認する前に直接A氏に「Bさん,おはようございます。」と話しかけた。
また,手術室看護婦Dは,2番目の患者(B氏)については,病棟看護婦Cに患者氏名を確認することもなく,患者に名前を呼びかけてもいない。
A氏とB氏の手術担当看護婦は,いずれも,この2人の患者と面識がなく,Dの声かけを聞いてA氏をB氏と思い込んでしまった。2番目の患者(B氏)は当然A氏だと思い込んでおり,病棟看護婦Cに氏名の確認を行わなかった。
[附属病院の対策]
○患者受け渡し時の確認方法の改善
○手術室の看護婦が術前訪問を行うとき,患者確認の一助となるよう,患者の外見的・身体的な特徴についても記録する。
[委員会における検討結果]
患者に氏名を名のってもらい確認するとしているが,患者に麻酔前の投薬をしている場合には,意識が明瞭とは言えない状態にある。したがって,この方法は,患者確認を行ううえで,有効な手段とはなり得ない。
本件事故の事実経過によると,病棟看護婦Cは,A氏とB氏の担当グループの看護婦ではないため,A氏,B氏とほとんど面識がないと思われる。A氏,B氏の手術担当看護婦も術前訪問を行っていないため,A氏,B氏と面識がない。
手術室看護婦Dは,A氏とB氏を術前訪問はしていたが,患者識別は術前訪問の目的になっていないため,A氏,B氏の顔や特徴をよく記憶していないと思われる。また,当日はA氏,B氏以外の患者の手術を担当していた。
すなわち,A氏,B氏と十分な面識がない者が患者移送と引き継ぎに携わっていたことになる。
附属病院では,識別バンドや足底への氏名記載など患者確認方法を改善した。
このような物理的な手段も有効ではあるが,これらは,あくまで補助的手段にすぎない。さらに,これらの対策に加えて,本来的には,患者をよく知った者が,移送や引き継ぎに携わることが重要である。
[参照] V−4 手術室の管理運営体制の確立
【原因3】
患者とカルテが別々の窓口で引き渡され,別々に手術室に移送されたこと |
通常は,附属病院では2台のハッチウェイを同時に使用し,ハッチウェイで患者を引き継ぎ,手術室に移送する。その後,ハッチウェイ横のドアのカルテ受け渡し台で,カルテ類を引き継ぎ,必要事項の申し送りを受け,カルテを手術室に搬送する。
[附属病院の対策]
[委員会における検討結果]
ハッチウェイで患者とカルテを引き継ぐことは,改善策として評価できるが,依然として,従来どおりハッチウェイを2台使用している。附属病院では,午前9時から手術を開始するため,午前8時30分前後の時間帯に,各病棟から手術患者が交換ホールに集中する。このままでは,依然として,2名の患者が同時に手術室側に移送されることになり,短時間での業務集中のために,患者とカルテが手術室側で離れてしまう可能性を残している。
したがって,ハッチウェイ1台のみの運用などについても検討する必要がある。
[参照] V−4 手術室の管理運営体制の確立
【原因4】
麻酔科医の患者確認について |
通常の手順では,麻酔科医は,各手術室で患者が入室したときに本人確認をした後は,特に確認行為は行わない。看護婦も,各手術室に入室後は,特に確認は行わない。
本件事故においては,A氏の背中に貼られていたフランドルテープ,患者の歯の状況や頭髪の様子の違いなどの確認が,徹底して行われなかった。
[附属病院の対策]
[委員会における検討結果]
麻酔科医は,手術を行うにあたって,患者確認を含め,重要な役割と責任をもっていることは言うまでもない。しかし,本件事故の事実経過によると,研修医まかせにしているところがあり,麻酔科の診療体制及び卒後教育体制の改善が必要である。
[参照] V−3 医師の責任体制の確立(20,21頁)
【原因5】
麻酔開始前に主治医が患者に立ち会っておらず,患者の識別を行っていないこと |
多くの大学病院では,麻酔開始前に主治医が患者の識別を行っているが,附属病院では,このことは「決まり」となっていない。二つの手術室においては,主治医及び執刀医は,誰も患者の識別をしていない。
[附属病院の対策]
[委員会における検討結果]
患者識別バンドは,あくまで,患者確認のための補助的手段にすぎず,患者に氏名を名のってもらう方法も,麻酔前の投薬によって,患者の意識が明瞭でない場合は,患者確認を行ううえで有効な手段とはなり得ない。
本来,主治医は患者の顔を覚えていて当然であるが,附属病院における主治医グループ制では,主治医が患者の顔を責任をもって知り得るシステムになっていないため,見直しが必要である。
[参照] V−3 医師の責任体制の確立
2 患者の取り違えに気が付かずに手術を行ったことについて
A氏とB氏を取り違えて,B氏に心臓手術を行ったことについて |
(1) A氏とB氏の疾患について |
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1 | A氏は,手術前の検査結果から,僧帽弁に病変のある僧帽弁閉鎖不全症であり,心臓の手術適応がある。 |
2 | B氏は,手術室入室後の検査結果からみると,僧帽弁に軽度な異常が存在するが,弁膜症と言えるほどの病変ではなく,心臓の手術適応はない。 |
(2) 取り違え手術について(別人と気が付くべき事項) | |
[麻酔科医関係] | |
1 | 患者(B氏)の歯が全部そろっていること,頭髪がやや短く白髪まじりであった ことに気が付き,そのことに疑問を持ったが,この時点で,麻酔科医は,術前訪問した時との違いについて徹底して確認すべきであった。 |
2 | B氏の剃毛は肺手術用のものであり,心臓手術用よりも範囲が狭い。麻酔科医Vは,予定通り剃毛が行われていなかった原因を確認せず,手術担当看護婦Iに対して,剃毛が不足していることを指摘した。Iも,何ら疑問に思わず剃毛を行った。この時,病棟に確認するなど議論すべきであった。 |
3 | B氏の前投薬はガスタ−(胃潰瘍薬)であり,麻酔科医がA氏に投薬するように指示したモルヒネの前投薬は受けておらず,意識がはっきりしていた。麻酔科医はこのことに気が付くべきであった。 |
4 | 麻酔導入時に聴診器をあてた際,心雑音がないことに気が付くことができるはずであった。 |
[執刀医,主治医関係] | |
5 | 食道からの心臓超音波検査で確認された手術台の患者(B氏)の僧帽弁は,高齢者であることを考慮すると,軽度の異常を有するにすぎないものであると言える。A氏の術前検査のものと全く異なるものである。麻酔によって,弁の機能や逆流がこれほどよくなることはない。 |
6 | 肺動脈の平均圧が,手術前のA氏は42mmHgであったのが,手術中のB氏は13mmHgであった。また,肺動脈楔入圧は,手術前のA氏は21mmHgであったのが,手術中のB氏は11mmHgであった。このデ−タは,上昇している肺動脈や左心房の圧が正常化したというデ−タである。体血管抵抗値からみて,麻酔時には,この差を説明するほどの末梢血管の拡張は起きていない。 5,6のデ−タから,手術前のA氏と手術台の患者(B氏)とは別人であると判断するのが至当である。 |
7 | 胸部X線写真で,B氏の心臓は,胸の幅の37%の大きさであったが,一方,手術予定のA氏は,58%まで拡大していた。開胸後,そこに見えている心臓の大きさが,A氏にしては小さいということに気が付くべきであった。 7のデ−タから,手術前のA氏と手術中の患者(B氏)とは別人であると判断するのが至当である。 |
8 | 心臓切開後,僧帽弁を直接見ることによって,手術中の患者(B氏)の僧帽弁の病変は,A氏の手術前の心臓超音波検査から予想されるものと,明らかに異なった軽度なものであることに気が付いてもよいと思われる。 |
[患者の状態がおかしいと感じた時の確認方法] | |
9 | 開胸前であれば,打診と聴診器で診察すれば,心拡大と心雑音がないことで,別人だと確認できたはずであった。(麻酔科医,執刀医,主治医関係) |
10 | 開胸後であっても,食道超音波プローブを抜き,食道聴診器を入れて心音を聴けば,雑音があるかないか確認できたはずであった。(麻酔科医,執刀医関係) |
以上の理由から,A氏とB氏を取り違えて,B氏に心臓手術を行ったことについては,執刀医,麻酔科医は,別人を手術していることに当然気が付くべきであり,開胸前あるいは体外循環開始前に中止すべきであった。
A氏とB氏を取り違えて,A氏に肺手術を行ったことについて |
(1) A氏とB氏の疾患について |
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1 | B氏は,CTの画像から臨床病期IIIAの肺腫瘍と診断できる。ただし,2回の気管支鏡検査及び生検による病理検査では,悪性の疑いがある細胞が発見されていない。開胸し,病理の迅速検査後,肺腫瘍の手術を行うとの判断は適当である。 |
2 | 手術前のB氏のCTからは,悪性の肺腫瘍が疑われていることから,手術中においても,手術前のB氏のCT所見と患者(A氏)の手術所見との矛盾などに気が付くべきであり,したがって,手術は中止すべきであった。 なお,A氏の嚢胞切除は,緊急性を要するものでなかった。 |
(2) 取り違え手術について(別人と気が付くべき事項) | |
[麻酔科医関係] | |
1 | A氏には,フランドルテープが背中に貼ってあった。また,入れ歯がはずしてあり,B氏に比べて髪が長く,白髪も少ない。麻酔科医は,これらのことに疑問を持ち,確認すべきであった。 |
2 | B氏には,カルテに既往症として慢性硬膜下血腫と脊柱管狭窄症で2度の手術を行った記録がある。麻酔科医は,術前にB氏を診察した時に,その手術痕について確認していれば,A氏に硬膜外麻酔を行う際に手術痕がないことに気が付くべきであった。 |
3 | A氏の剃毛は心臓手術用のもので,肺手術用の剃毛よりも範囲が広い。麻酔科医は,このことに疑問を感じ,原因を確認すべきであったが,何ら議論されていない。 |
4 | 手術前にA氏は,麻酔科医が投薬するように指示したモルヒネの前投薬を受けており,一方,B氏の前投薬はガスタ−(胃潰瘍薬)であった。したがって,B氏の意識は,はっきりしていたはずであるのに対し,A氏の意識が,もうろうとしていることに気が付くべきであった。 |
5 | 麻酔導入時に聴診器をあてた際,心雑音に気が付くべきであった。 |
[執刀医,主治医関係] | |
6 | A氏の嚢胞は,B氏の肺腫瘍と思われる陰影が存在した部位と同じような部位に存在したが,B氏のCT画像(肺腫瘍と思われる。)とは異なるものである。開胸後,嚢胞とB氏のCT画像が異なっていることに気が付くべきあった。 |
7 | A氏には,B氏の術前の検査で確認されていたリンパ節の腫れはなく,このことを確認すれば,気が付くことができたはずであった。 |
8 | B氏は術前の検査で肺(S6)に2ミリぐらいの結節がある。この結節の確認をすべきであった。 |
以上の理由から,A氏とB氏を取り違えてA氏に肺手術を行ったことについては,執刀医,麻酔科医は,別人を手術していることに当然気が付くべきであった。
[報告書目次]