V 事故再発防止に向けて

 このような事故を再び起こさないためには,個人の誤りや落ち度の問題だけにとどまってはならず,それらの過ちの連鎖を断ち切る仕組みが不十分であり,病院としての管理運営システムに欠陥があったのではないか,との認識に立つことも重要である。
 そこで,本項では,本件事故の発生の要因となった組織運営上の問題点を中心に,検討結果を報告することとする。今後,附属病院が,この報告を真摯に受け止め,事故の再発防止に向けて,積極的に取り組んでいくことを強く期待する。

1 患者中心の医療の確立

 医療は患者の立場に立ち,患者を中心にして行わなければならないことは,ここで改めて言うまでもなく,当然のことである。
 しかし,職業として医療に携わるものにとっては,医療行為そのものがあまりにも日常的なこととなり,慣れや気の緩みを生じかねない。
 また,医療・医学の進歩に伴い,医師をはじめ,医療スタッフの専門指向が強くなり,患者の気持ちや立場を十分に認識しないままで医療行為を行う傾向も見られる。
 医療は,患者と医師をはじめとする医療スタッフとの信頼関係のうえに成り立っているが,本件事故は,医療に対する市民の信頼を著しく損なう結果を招いた。1日も早く,この信頼関係を回復しなければならない。そのためには,患者にとって医師をはじめ,医療スタッフの判断や技術が,的確で誤りがないということが大前提になる。
 本件事故の経過を見ると,患者と医師等の意思疎通の基本とも言える「患者の顔」をよく知らない医師や看護婦などが,医療行為に関与していたことが明らかとなった。
 これは,個人の努力不足もあるが,主治医グループ制,手術スケジュールの決定方法,看護婦の勤務体制など病院組織としてのシステム上の欠陥から生じていると考えるべきである。
 医療行為を行う場合,「患者の顔」などの特徴を知り,「患者の確認」をすることは当然であり,大原則である。
 附属病院においては,患者の立場に立った「患者中心の医療」とは何かを職員全員で確認し,高度な医療を的確に提供するだけでなく,患者の生命の尊厳と権利の尊重を心から大切にする医療の確立と医療人の育成を目指す必要がある。

2 チーム医療の確立

 現代の医学は高度に専門分化し,患者と家族を中心にして,多くの医療スタッフの関与によって成り立っている。
 チーム医療とは,医療スタッフが協力し合って,それぞれが自己の専門的な能力を発揮し,その相乗効果によって,患者に対して,適切な医療を提供するための方法の一つである。
 チーム医療が成り立つためには,チームを組織する職員が責任と役割を明確にし,患者を中心に協働意識を持ち,意思疎通を図ることが重要である。
 本件事故の経過を見ると,手術室交換ホールに限られた短い時間帯に患者が集中すること,患者とカルテとが離れて別々に運ばれること,カルテに医師の記載署名がないこと,また,麻酔科医が術前訪問を行ったという記録がカルテにないこと,執刀医が誰であるかを患者が知らないことなどの事実が明らかとなった。このような事実は,チーム医療を行うにあたっての基本的問題点として,当然,誰もが気が付くべきであったが,誰からも指摘されていなかった。
 また,手術中に,何度も別人であると気が付くべき機会があったことを指摘したが,術中の検査データの検証の際に,内科等の専門医と一緒に検討した経緯がないこと,剃毛の違いについて,麻酔科医による疑問の提起や検討もなく,また,看護婦からの発言もなかったこと,主治医グループの医師が,人工心肺への脱血量が予測数値と異なることに気が付いていたが,執刀医に連絡されていないことなど,チーム内の意思疎通が不十分であったと言わざるを得ない。その点で,チーム医療においてリーダーとしての役割を果たしている者の責任は大きい。
 チーム医療によって,チーム構成員の責任意識が欠如することはあってはならないことである。しかし,本件事故の経過を見ると,各自が当然なすべき「確認」作業を怠ったことは明らかである。
 これらの背景には,おそらく,各部門が個々に,自己の専門分野の範囲内でそれぞれ別々に機能しており,相互の連携や一体感が乏しかったことなどがあるのではないかと思われる。
 附属病院においては,チーム構成員の意思疎通を図り,また,部門間の連携を促進し,患者の立場に立ったチーム医療を確立することが必要である。

3 医師の責任体制の確立

(1) 主治医グループ制の見直し

 主治医とは患者の治療の中心となる医師であり,医師と患者との関係は,「1対1」が基本である。附属病院の第1外科においては,主治医は1人ではなく,4人を基本としたグループ制をとっている。これは,1人の医師が責任を持って何人かの患者を受け持つのではなく,グループの構成員である4人の医師が全員で一様に患者の診察に携わるシステムである。
 現在,助手がグループの責任者になっているが,実際に中心となって患者の治療を行っているわけではない。
 また,今回のカルテの記載を見ると,複数と思われる筆跡で書かれていたが,そのほとんどに記入者の署名がなかった。
 このような主治医グループ制では,グループ制の弊害が現れ,患者に対して,どの医師が責任を持っているのかが,漠然として,わからないシステムになっている。
 グループ制をとる場合であっても,患者に対する主治医は,本来1人とすべきであり,そのグループの責任者は,個々の患者を受け持つ一人ひとりの医師を指導するとともに,患者全体を把握する責任を果たすことが必要である。

(2) 執刀医グループ制の見直し

 本件事故の経過を見ると,附属病院の第1外科において,執刀医は3名のグループで構成されているが,誰が責任者で,手術は誰がするのかなど重要な点について,患者に説明を行っていない。また,執刀医が術前訪問をして診察することは「決まり」となっていない。本件事故においては,執刀医も,患者の取り違えに気が付かず,いずれの手術も,最後まで続行されたが,誰が手術の開始と続行を決断し,あるいは指示したのか,責任関係が明らかでない。
 手術室においては,執刀医の責任は重く,自分が手術することを事前に患者に説明することをルール化するとともに,その説明内容を記録し,手術開始時には,その内容を確認するなど,患者に対する責任体制を明確にする必要がある。

(3) 麻酔科医グループの教育・管理体制の見直し

 本件事故の経過を見ると,肺手術を予定していた患者(B氏)の術前訪問は,研修医のみが行っており,また,麻酔の初期導入も研修医が1人で行っている。
 当該研修医は,術前訪問の記録をカルテに記載することもなく,フランドルテープに関する知識もなかった。
 これらのことは,研修医の個人的な力量の問題もあるが,医師の養成機関と教育機関である附属病院の研修医に対する教育・指導体制に問題があると言わざるを得ない。
 また,安全管理という面からみると,医療の責任体制としても問題である。麻酔科医が「ハッチウェイで出迎える。」というような対策だけではなく,今後は,研修医が麻酔を受け持つ場合,麻酔科専任の医師(助手以上)が指導に就くとともに,術前訪問のあり方を見直し,責任体制を確立する必要がある。

4 手術室の管理運営体制の確立

(1) 手術部の機能強化

 附属病院においては,患者及び医療従事者の安全と,手術の円滑かつ効率的な実施を確保するため,手術部長(他の診療科部長と兼務)のほかに,専任の医師(講師)を配置している。
 本件事故の経過を見ると,手術部専任の医師は,各手術室を巡回していたが,3番及び12番手術室で起こっていることを,麻酔科医,手術担当看護婦などから,麻酔科部長あるいは手術室婦長等を通じて,伝達されていなかったことが問題である。
 仮に,情報伝達機能が十分に働き,この2つの手術室で同時に起きている出来事が手術部に集約されていたならば,今回の事故発生は防止できたかも知れないが,附属病院においては,手術部そのものが,十分機能していなかったように思われる。
 手術は,言うまでもなく,患者の身体に強い侵襲を加える行為であり,手術部は,患者の安全管理に最大限の努力を払う使命を負っている。そのため,異常事態をはじめ,各手術室で生じている出来事が,責任者である手術部長や手術部専任の医師に迅速に伝達され,的確な対応を図ることができるよう,管理運営体制を確立する必要がある。

(2) 手術スケジュールなどの見直し

 手術室においては,まず,第一に安全管理を重視すべきであり,そのためには,手術スケジュールをどう調整するかが重要になる。附属病院では,手術室調整会議において,手術日程を組む際に,一つの病棟内で複数の手術を同じ時刻から開始しないように,調整することとしたが,これだけでは十分とは言えない。
 現行の手術スケジュールによると,9件の手術を午前9時に開始することとしている。
 このままでは,午前8時30分前後の時間帯に,手術交換ホールに患者が集中することとなり,限られた時間の中で患者の引き継ぎとカルテの申し送りをしなければならない状況は何ら変わらないことになる。
 また,手術室看護婦の勤務時間帯が,現行では,午前8時15分からとなっており,午前9時からの手術開始に余裕を持って対応できる体制となっていない。
 安全管理の観点に立って,ハッチウェイでの患者引き継ぎが短い時間帯に集中しないようにするため,手術スケジュールや手術室看護婦の勤務体制を見直すなど,さらに,根本的に改善策を検討する必要がある。
 附属病院においては,中央手術部の運営などに関する事項を審議する内部組織として,「手術部門運営委員会」が設置されているが,今後は,活動を活性化し,これまで述べてきた情報伝達機能や手術スケジュールの見直しなど,手術室の管理運営体制の確立に向けて,様々な問題点を改善する必要がある。

5 病棟の勤務体制の見直し

 マニュアルでは2人の看護婦で患者を手術室まで移送することになっているが,午前9時から開始される手術の場合,現在の勤務体制では,1人で移送することが常態となっている。
 このことは,看護婦の個人的な事情によるのではなく,病院の管理運営上の問題に起因している。
 附属病院においては,他の病院に比べて多くの看護職員が配置されているにもかかわらず,必ずしも患者中心の看護体制とはなっていない。患者の安全を確保するためには,勤務時間帯の変更や職員配置時間の工夫など勤務体制の見直しが必要である。

6 安全管理体制の確立

 医学・医療の進歩は,患者・市民の生命を守り,健康を増進するうえで,大きな貢献をしてきたが,医療機関はこの役割を果たし,患者・市民の信頼に応えるために,適切な診療を行うとともに,医療事故を未然に防ぐことが,強く求められている。
 医療事故を未然に防ぐためには,個人と組織の両方の視点から対策を考えなければならない。
 個人という視点からみると,特に,患者・市民の生命を預かるすべての医療スタッフは,医療事故は,患者・市民の生命・身体に大きな影響を及ぼすという事実を深く自覚するともに,決して事故を起こしてはならないという決意を持って,事故を未然に防ぐために,日頃から研鑽に励むことが重要である。
 また,組織という視点からみると,「人間は必ずミスを犯す。」ということを踏まえて,ミスを許してしまうシステムや組織の欠陥が事故原因であるとの認識を持ち,システムの見直しを常に行うことが重要である。
 本件事故の経過を見ると,医師をはじめ関係した職員の誰もが,患者がまさか入れ違うはずがないという強い「思い込み」に満ちていたものと思われる。そして,検査データを他科の医師などが参加して,総合的に判断する仕組みもなかった。
 附属病院においては,医療事故の防止及び発生時の対応に関する内部組織が設置されていないが,本件事故を深い教訓として,患者の立場に立ち,患者が安心して安全に医療を受けることができる組織を整備する必要がある。
 そのためには,本件事故を院内組織の一部で発生した医療事故であるという限局した捉え方をするのではなく,医師をはじめ職員自らの問題であるとともに,病院組織運営のあり方の問題として捉えることが重要である。
 また,発生した事故については,その事実関係を直ちに明らかにするとともに,その原因や防止対策について,全職員が参加できる提案制度を制定するなど,病院内のすべての人が,自由に発言できる雰囲気を醸成することも必要である。
 そして,二度と誤りを繰り返さないよう,安全管理に詳しい専門家の意見も聞きながら,安全管理委員会や事故防止対策委員会など,新たに常設の内部組織を設置し,小さな見過ごしやニアミスなども含めて情報を収集し,すべての事故を未然に防ぐための安全管理体制を確立することを強く望むものである。

報告書目次