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HOME > 教員からのメッセージ − At the Heart of YCU > 本とメディア、人との関係を、時代の変遷とともに探究しています - 山田 俊治 教授

本とメディア、人との関係を、時代の変遷とともに探究しています - 山田 俊治 教授

幅広い観点から文学の本質や役割を研究

 文学研究とは「雑学研究」でもある

私は、もともとは近代の日本文学を研究していました。文学研究とは文体やストーリー、テーマなど、小説そのものを研究することはもちろんですが、雑学ともいえるさまざまな事象を取り扱います。小説の中に出てくる生活、服装、当時の習慣、取り巻く社会状況などをおさえておくことが求められますし、言葉についての学問である言語学は当然必要です。

作中人物が映画や芝居を見たり、音楽を聴いているなら、その映画や音楽がどんなものかをリサーチしなければいけませんし、主人公が科学者ならば、物理や化学、天文学などの関連事項を調べる必要も出てきます。社会学、歴史学、民俗学など、あらゆる学問の知識や幅広い教養があるほど、発表当時の文化状況の中で、その作品がどういう意味を持っていたのかなど、より核心に迫った分析や考察ができるようになります。そういう意味で、現在では、文学研究はある種の雑学で、文化研究でもあると感じています。


山田 俊治(やまだ・しゅんじ)
国際総合科学群 教授 日本近代文化論
 (学部)国際総合科学部国際教養学系国際文化コース  (大学院)都市社会文化研究科 
研究者データベース  

メディアにおける文学の位置づけを考察

80年代に入ってから、各種のメディア論が注目されるようになってきました。そうした中、文学も研究の方向性に変化があらわれ、作品発表の場としての新聞、雑誌の役割や、作品がどう流通して、どう読者の手元に届けられるかといった観点からの研究も始まりました。

作品単体を扱っていればいいという時代ではなくなり、私もメディアとしての新聞や雑誌、そしてその中での文学の位置づけといったものを研究するようになりました。現在は、主に明治初期の新聞の研究を進めるとともに、坪内逍遥や山田美妙など近代作家について研究しています。その成果は、近刊の岩波文庫の短編アンソロジーや、臨川書店の『山田美妙集』の編集、解説に発表しました。

「何を」読むのか。「何のために」読むのか

 情報としての新聞、読み物としての新聞

新聞は、今でこそ情報伝達ツールの色合いが強いですが、明治初期の「読売新聞」や「朝日新聞」などは、娯楽としての側面が表に出たものでした。当時はもちろんテレビもネットも映画館もなく、娯楽といえば芝居小屋と寄席ぐらいしかない時代。活字が娯楽の重要な要素を担っていたのです。

例えば新聞紙上においては、世をにぎわせた事件も、事件の概要のみならず、さまざまな背景を盛り込んだひとつの物語として掲載され、人々はその展開に心躍らせながら記事に目を通していましたCLOSE UP 1。現在の新聞でも政治や経済、社会面以外にも、小説や4コママンガが載っていたり、映画紹介などの読み物的記事があるのは、その名残りと考えられます。

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殺人を伝える記事が、今の新聞小説の原型?

明治初期の新聞を見ると、殺人事件を伝える記事でも今とは構成が全く違います。現在であれば、例えば最初に「死体が発見された。犯人はわからない」とあるのが、昔の新聞では、犯人はわかっていて、その生い立ちから犯行動機、殺人の実際、逃避行の様子、捕まった犯人の処分まで、今でいう裁判の調書のような内容が新聞に掲載されていました。さらに驚くのは、取り上げている事件が昨今のものでなく、10年以上も前のものというのが珍しくなかったこと。記事は数日に渡って連載されることもあり、挿し絵も付いていました。このようなスタイルが今の新聞小説のもとになったのではと考えられます。

学ぶための読書、楽しむための読書

情報伝達と娯楽、新聞におけるこの2つの役割は、小説などの本にもあてはまります。また、本の読み方にも2種類あり「楽しむために読む」というのと「学ぶ、勉強するために読む」というものです。江戸時代をみても、「戯作」と呼ばれる通俗小説と、四書五経などの儒学の本があり、その役目に沿った読書がありましたCLOSE UP 2

「活字離れ」と言われて久しいですが、今の若者を見ていると、決してそうは思いません。手にしているのが本からスマホやパソコンに変わり、文字は印刷文字から液晶文字に変わりましたが、彼らは日々、頻繁に文字に接しています。ただその対象が娯楽に寄ったものになっていて「学ぶための読書」が衰えているのではと感じます。現在は学校教育においても、読み書きができて当たり前という認識で、あらためて何かを読んでそれをマネて書かせるといったことは行いませんし、作文もただ漫然と書かせているだけのように思えます。読書法を教えることもないでしょうし、勉強としての読書の基本がおろそかにされているのではないでしょうか。

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源氏物語も、昔は教科書だった

有名な紫式部の源氏物語。今、私たちは古典のテキストとして習うことも多いですが、昔は現代の小説のように一般の人に読まれていたと思っている方もいるのではないでしょうか。実は源氏物語も、中世においてはごく一部の地位と博識を備えた貴族が、和歌をつくる時の参考書として読んだ書物でした。和歌は貴族の社交の道具としてなくてはならないものであり、掛詞、縁語、本歌取りなどの修辞法や踏まえるべき和歌があるため、源氏物語を暗記するほどでないと、教養のあるよい和歌はつくれませんでした。

庶民にとって高尚で手が出なかった源氏物語ですが、江戸時代にはそのパロディともいえる柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)などの出版により、身近な存在になっていきました。

読書が持つ力に、出会ってほしい

 自由な読み方が、好奇心を広げる

もともと小説は娯楽として始まったものですが、明治になり、教科書に掲載されるようになってから学問のニュアンスが強くなりました。学校で読書の基本を教える、学ぶということは大事ですが、教科書に掲載された文学の読み方には幅があっていいと思います。教科書イコール勉強のためのものということでなく、もっと自由に、「おもしろいもの」として読んだらいい。漱石の「こころ」に出てくる先生だって「なに、この人おかしいのじゃない?」と思って読んだってよいわけです。

あえて「教養にしない」という教科書の読み方から、好奇心が広がって、結果的に「学ぶための読書」につながっていくかもしれない。中学生や高校生の皆さんも、そうした自由なスタンスで、文学とつきあってほしいですね。

 テーマを見つける力。説得する力

授業においては一方通行にならないよう学生の発言を重視し、やりとりを通して、さらなる気づきを生み出したいと考えています。ゼミでも学生の自主性を重視し、学生自身がテーマを見つけられるよう指導しています。ただ学生はテーマを考える際、「日本におけるアメリカの影響とは?」など大きなものになりがちです。ですので、アメリカの影響であれば、まず何かの事件、映画や小説の中で検証するといった、いかに具体的で個別なものに変換していくかという視点をアドバイスしています。

また、そうしてまとめた自分の考えを相手にわかってもらう、説得するための論証も重視しています。こうした一連の作業にも、書物の存在は不可欠です。本とよい関係を築き、未来を切り拓く確かな力にしてもらえたらと願います。

(2013.2.22 広報担当)

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