YCU 横浜市立大学

問題解決能力

これまでのところで、教養とは何かがだいたいわかってもらえたかと思います。では、教養そのものであるともいえる問題解決能力というのはいったいどんなものなのでしょうか?

ここでは、問題解決能力について具体的に見ていきたいと思います。

問題解決のプロセス

問題を解決するには、まず問題を「正しく」認識する必要があります。

簡単にいってしまいましたが、問題を解決しようと思うときに一番困難を伴うのがこのプロセスかもしれません。ほとんどの場合において、意外にも私たちは問題を正しく認識できていないことが多いのです。逆にいえば、問題がわかれば9割は解決したようなもの、などともいえるかもしれません。

何が問題かわかれば、知識や情報、あるいはより学問的ないい方をするなら、理論や方法論を用いながら問題を解決していくということになります。

もちろん、それらが手持ちの「駒」として使える保証はありません。新たに知識や情報を収集したり、あるいはそれらを使いこなしていくためには、本を読んだり、人から教えてもらう必要もあります。そのための能力がコミュニケーション能力です。場合によっては、この能力は問題の認識のプロセスにおいても必要となってくることもあります。

とりあえずまとめてみましょう。

問題解決能力は次の3つに分解できるのではないでしょうか。

(1)問題を「正しく」認識する力
(2)コミュニケーション能力
(3)知識・情報をツールとして使いこなす力

次にこの3つについて見ていきたいと思います。

問題を「正しく」認識する力

ところで、なぜ 正しく にかぎかっこがついているのでしょうか?

これは問題を正しく認識する仕方に普遍的に正しいといえるものがないからなのです。これは、逆の状況を考えてみればわかります。仮に普遍的に正しい認識の仕方があるとします。だとしたら、普遍的に適用できる解決策を用いればすんでしまいます。こうなると、知っているかどうかの問題になり、その程度で解決がつくものなら、むしろ知識といってしまってよいものでしょう。

その点で、問題解決能力、あるいは、教養が真価を発揮するのは、普遍的な正しい認識が困難な場合にあるといってよいでしょう。

では、そういう場合の正しさというのは、いったいどういうものなのでしょうか?
これはつまり、問題に答えなければならない人(立場)に応じて、正しさが変化するような場合です。ですから、かぎかっこつきの正しさというのは、自分なりの正しさということになるかと思います。そして、人それぞれ、十人十色である以上、現にある、あるいは、かってあった問題認識というのもは何の役にも立たないことになります(おそらくは、何度も役に立つ、いろいろな人の役に立つ問題認識というのがあれば、それはすでに知識に還元されてしまっているだろうと思います)。

では、どういう能力が問題の正しい認識へと導くのでしょうか?本質を見抜く力でしょうか(こういう万能の力があれば誰も苦労はしないのかもしれません)?それとも、注意力(これはこれで正しいのでしょうが、どうも堂々巡りになりそうです)?

ひとついえることは、ある程度の試行錯誤は免れられないことと、その都度、自分の認識を軌道修正をしながらでないと問題の正しい認識に近づく方法はないように思います。その点で、色々な可能性や考え方を受け入れることができないと問題解決は難しいといえるかも知れません。つまり、自分の考え、一つの可能性、一つのものの見方にとらわれず、色々な角度からものを考えたり、検討することが必要だということです。

すなわち、多様性の認識が重要になるということです。

最初はあいまいで、形のぼんやりした自分の考えを色々な角度から見直し、やすりで研磨するようにはっきりさせていくのは、なにより、色々な考え方であり、その考え方を取り入れ、使いこなすには、多様性を認識していくよりありません。 

コミュニケーション能力

問題解決能力の中核といってよいかもしれません。人によっては、教養の中核としてコミュニケーション能力を挙げる人もいるくらいです。

コミュニケーション能力というと、英会話やパソコン、ネットの操作法などから、ビジネス書にあるような、人とうまく会話する能力や上手な文章を書く能力などが連想されます。その連想から、「どうして、そんなものを大学で?」と思う人もいるでしょう。

もちろん、上記に上げた基本的な能力の訓練をする機会も大学では用意はされています。そして、危機的なことですが、そういう能力(リテラシーなどともいいますが)の訓練を大学で時間をとってやることが本当に必要な時代になってきているともいえるかもしれません。しかし、ここではもう少し広い意味でコミュニケーション能力というものを考えています。

もちろん、人前でうまく発表する、要領よく話す、印象に残るプレゼンテーションを行うための能力はコミュニケーション能力です。

しかし、そのような即時的なコミュニケーションに限らず、本を読む(読み切る、読み込む)、本の内容を理解するということもコミュニケーションです。この場合、相手は目の前にはいなくて、何百年も前の人であることもありますし、数年前の自分かもしれないのです。

もっと極端になると、相手は人間ではないかもしれません。データを分析したり、解釈したりすることもコミュニケーションといえるかもしれません。
さて、そういうコミュニケーションをするにあたって必要とされる能力は何でしょうか?

ネットワークやコンピュータを使う能力もそうですし、外国語を使う能力(読む、聞く、話す、書く)もそうです。このあたりは割とわかりやすいかもしれません。さらに、コミュニケーションの相手(本、テキスト、資料も含まれます)を探す能力、相手のいっていることや情報の価値や真贋を見定めたりする能力もそうです。

最後にこのコミュニケーション能力ですが、問題の認識のプロセスにも重要な働きをすることに注意してください。

たとえば、議論やディベート。普通は他人とのやりとりを連想しがちですが、自己を相手に行ったらどうでしょうか?たとえば、「あなたは何をやりたいのか?」もしも、自己を客体化して、どんな立場にもたって議論することができれば、その能力を自分自身とのやりとりに使えば、自分の考えの甘いところなどを見出すのにも応用できそうです。こう考えていくと、コミュニケーション能力自体も問題認識のプロセスにも関係してくることがわかるかと思います。 

知識・情報をツールとして使いこなす力

最後については、割とわかりやすいかと思います。持っている知識や情報はそのままある種の力になり得ますから。気になる点は「ツールとして」というところかもしれませんが、これは、「知識・情報そのものを得るのが目的ではない」という程度の意味だと思って差し支えありません。

なお、ここでいう知識・情報というのは、文字通りのものばかりではなく、大学での学びという限定では学問、あるいは、専門ということにもなります。そして、学問をツールとして使いこなす力というものは、最低限でも1つの学問分野でそれなりの勉強をした経験がなければ身につかないともいえます。
ここで注意してほしいのは、専門的な知識や学問の成果(それ自体だって、相当な力を持つものですが)以上に、専門で学んでいくうちに培われるかんどころのようなものを「ツールとして使いこなす力」と呼んでいるということです。

このことはある種の人にとってはとても奇妙にきこえるかもしれません。教養というものは、問題解決力であり、それには、専門知識などをツールとして使いこなす力が含まれてくる。そして、その力は、専門の勉強をそれなりにすることによって身についてくる。また、専門性を高めるには、自ら学ぶ力としての教養を高める必要もあります。だとすれば、仮に教養を専門性と対立して考えることしかしないのならば、これ以上矛盾きわまる話はないということになります。

そうなのです。専門性と教養は対立しませんし、むしろ、相互に高めあうような関係にあるといってよいのです。 

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